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大震災そして1年

 

松 本 久 子
(茨木市)

 

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“揺れた”なんてものではなかった。経験はないが、沈没寸前の船が波浪にもてあそばれているような感じがした。寝床に起き上がり、上げた声は「どうしよう、どうしよう」これだけだった。日頃沈着冷静(?)な自分のつもりであったのに、慌てふためいて何が何だか分からなかった。その時、隣に寝ていた夫がこう言った。「寝とけ!」ぱっと布団がかけられた。交わした会話のすべてであった。やがて電気が点き見回すと、棚や、タンスの上の物はすべて落下していた。それなのに本棚やタンスは元のまま、「よかった」一安心。台所に出てみればまるでおもちゃ箱をひっくり返したような、足の踏み場もない有様。南向きの食器棚は中身が殆ど外に投げ出されていた。理由も何もなくぼんやりそれを眺めていた。隣の部屋でガチャガチャ割れたガラス、陶器類の破片を段ボールに放り込む音がする。起き出した夫が一人で片づけていた。「手伝え」とも言わない。手伝わなければとも思わなかった。時間の経過と共に落ち着きを取り戻して後始末にかかった。テレビは阪神の大変な有様を報じていた。この程度で、ひどいけれどまだまだ被害は軽微だったと思えた。映像を見ながら、一瞬にしてこのような大災害をもたらす地震に恐怖を覚え、非情さに電源を切った。
2日後の19日、所属している会の役員会で一人の方が昨日の朝から夜通しで長田区まで物資を運んできた。もう眠たくて・・・。
内容を聞いてびっくりした。「2日間で集めた物資は飲み水タンクローリー1台、薬局にトラックを横付けて、何でもいいからいっぱいにしてくれと言い、薬品、食料品、医療品、日用品等計トラック7台をパトカー先導で走っていたが、途中で許可証を貰って夜中の2時に、やっと現地に届けた。とにかく酷い。助かった人行方不明の人がどれだけか把握できない」と。それにしても災害が起きて2日間でこれだけ即応が可能であったことは、共通の痛みを感じる人達だからなのか。
私は1月26日〜27日と鳥取県での「全国人権啓発研究集会」に参加するため、買っておいた「スーパーはくと」の切符が電車不通のため不能、参加しなくてもよいだろうと一人思った。ところが、「朝出て夜着こうとも参加することに意義がある」。行ってくれとのこと。自分の考えの甘かったことが恥ずかしかった。行くからには万難を排してと思い、自由席確保のため乗車2時間前にホームに立ち、現地での研修日程を終えた時は、雪の中、不便な交通機関を克服しての参加のためか、今まで味わうことのなかった充実感を覚えた。
音信不通になっていた阪神間の友よりの年賀状は?と心配していたが“来た!”家が全壊したが元の場所に新築し、やっと住めるようになった。皆無事であった事に喜びを感じている。と書かれてあり、壁が落ち、物の壊れた位で半分パニック状態であった自分と違い、生命が何よりの宝と、過ぎた事を悔やまず前向きの人生を闊歩している友を誇りに思う。地震での被害は免れたが急な病気でご主人を亡くされた友、慰めの言葉が浮かばない。正しく悲喜こもごもの1年であった。

 

 

 

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